渋沢栄一の複数の愛人…!妻(嫁)や子孫の現在!家系図・名言!邸宅や会社を総まとめ!

2024年から1万円新紙幣の”顔”となる渋沢栄一さん。しかし、あまり馴染みのない人物のため、どのような人物か分からない方も多いと思います。江戸・明治・大正・昭和、4つもの年号を生きた渋沢栄一さんについてじっくり掘り下げていきたいと思います。

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渋沢栄一のプロフィール

生誕:1840年3月16日(天保11年2月13日)

出身地:武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市血洗島)

身長・体重:150cm・47㎏

死没:1931年11月11日(満91歳没)

職業:幕臣・官僚・実業家・教育者

主な経歴と功績

天保11年(1840年)2月13日に父親・渋沢市郎右衛門元助と母親・エイの間に長男として生まれた。幼い頃の名前は栄二郎であり、のちに栄一郎・篤太夫・篤太郎を名を変えることになる。渋沢家は、藍玉の製造販売と養蚕を兼営し、その他にも米・麦・野菜の生産をするなど、”富”や”勢力”のある農家でした。また、一般的な農業とは違い仕入れや販売価格の原価率などの計算が必要な商売だったため、算盤での計算や仕入れを14歳の頃からやっていたという。

 

安政5年(1858年)の19歳の時に名前を栄一郎と改める。元治1年(1864年)、24歳で一橋慶喜氏に仕えて一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わっていた。慶応3年(1867年)の27歳の時には、徳川昭武氏に従いフランスへ渡航。その際、パリ万博を視察したほか、先進的な産業や軍備、社会を生で見て、感銘を受けたという。

 

【左:1866年 右:1867年】

明治2年(1869年)、29歳の時に静岡で商法会所を設立。しかし、大隈重信に説得されて大蔵省に入省し、民部省改正掛長を兼ねた。明治8年(1875年)、35歳で財界を退き、第一国立銀行頭取に就任。そして、商法講習所(現在の一橋大学)を創立した。この頃から、渋沢栄一さんの経営者としての手腕が発揮される。

 

明治18年(1885年)の45歳の時に日本郵船会社を創立。1887年頃には、渋沢栄一さんを慕う経営者や管理職が集まる『龍門社』が組織され、昭和初期には数千名の会員を数えた。明治29年(1896年)の56歳の時に京釜鉄道会社の設立に尽力し、さらに三年後には京仁鉄道会社合資会社も設立した。

 

明治34年(1901年)、61歳で日本女子大学校開校し、会計監督を務めた。その後、同大学の校長に就任している。明治39年(1906年)の66歳のときに東京電力会社を創立し、取締役に就任。また、京阪電気鉄道会社を創立し、創立委員長にも就任している。

 

大正3年(1914年)、74歳で日中経済界の提携のため中国訪問。大正5年(1916年)、76歳を機に実業界を引退し、『論語と算盤』を執筆。大正10年(1921年)、81歳の時に排日問題善後策を講ずるために渡米し、ハーディング大統領と会見を開いた。昭和6年(1931年)11月11日、91歳でこの世を去った。

創設・設立を年表でおさらい

渋沢栄一さんはこれまで多くの企業や法人に携わり、指導・監督・相談役を請け負ってきました。その総数は500社以上とも言われています。”経済の生みの親”と称された渋沢栄一さんが、これまで創設・設立してきた主な企業を見ていきましょう。

企業名創設・設立年年齢
第一国立銀行明治6年(1873年)33歳
大阪紡績会社明治15年(1882年)42歳
日本郵船株式会社明治18年(1885年)45歳
東京電灯会社明治19年(1886年)46歳
日本煉瓦製造施設株式会社明治20年(1887年)47歳
品川硝子会社明治21年(1888年)48歳
東京石川島造船所明治22年(1889年)49歳
東京交換所明治24年(1891年)51歳
東京貯蓄銀行明治25年(1892年)52歳
京釜鉄道会社明治29年(1896年)56歳
広島水力電気株式会明治30年(1897年)57歳
日本興業銀行明治33年(1900年)60歳
茨城採炭株式会社明治34年(1901年)61歳
清韓協会明治35年(1902年)62歳
韓国興業株式会社明治37年(1904年)64歳
東京電力会社明治39年(1906年)66歳
帝国劇場会社明治40年(1907年)67歳
日韓瓦斯株式会社明治41年(1908年)68歳
中国興業株式会社大正2年(1913年)73歳
渋沢同族株式会社大正4年(1915年)75歳
日米協会大正6年(1917年)77歳
国際聯盟協会大正9年(1920年)80歳
日本放送協会大正15年(1926年)86歳
日本航空輸送会社昭和3年(1928年)88歳

渋沢栄一の名言まとめ

日本の経営や経済に尽力した渋沢栄一さんは、これまでに多くの名言を残している事でも有名です。日本の功労者でもある渋沢栄一さんの名言についてまとめてみましたので、ご覧ください。

全て形式に流れると精神が乏しくなる。何でも日々新たにという心がけが大事である。

 

心を穏やかにさせるには思いやりを持つことが大事である。一切の私心をはさまずに物事にあたり、人に接するならば、心は穏やかで余裕を持つことができるのだ。

 

人は死ぬまで同じ事をするものではない。理想にしたがって生きるのが素晴らしいのだ。

 

不言実行と共に、また有言実行も大いによろしい。

 

長所を発揮するように努力すれば、短所は自然に消滅する。

 

世の人が元気をなくしており、社会の発展が停滞している。いままでの仕事を守って間違いなくするよりも、さらに大きな計画をして発展させ、世界と競争するのがよいのだ。

 

大金持ちになるよりも、社会万民の利益をはかるために生きる方が有意義である。

 

男はいかに丸くとも、角を持たねばならぬ。

 

全て形式に流れると精神が乏しくなる。何でも日々新たにという心がけが大事である。

実業家として注目されがちな渋沢栄一さんですが、数字だけを上げれば良いという人間ではなかった。”人”を幸せにするにはどうしたら良いのか。”人”と生きるというのは。”人”に必要とされるには。という道徳的観点の持ち主でもあったからこそ、ここまでの功績を残せたのでしょう。

渋沢栄一邸&生家

明治9年(1876年)に東京都・深川福住町に本邸として建てたが、その一部は明治42年(1909年)東京都・三田綱町に移築しました。また、明治21年(1888年)には、本邸を東京都・兜町に移したため、深川邸は別邸として利用されました。

【東京都・深川福住町】

【東京都・兜町】

【青森県・三沢市】

青森県三沢市と六戸町にまたがる星野リゾート青森屋敷地内にある邸宅「旧渋沢邸」(六戸町)が、東京都内に移築されることが7日、移築工事を行う建設大手・清水建設(本社東京)への取材で分かった。

出典:https://www.toonippo.co.jp

その後、建物は平成3(1991年)に年青森県三沢市へ移築され、2018年(平成30年)に東京都・江東区へ再び移築された。

【東京都・飛鳥山】

【曖依村荘・救世軍大将ウイリアム・ブース氏招待】

また、渋沢栄一さんは、設立に尽力した王子製紙の工場を眼下に見守ることができる飛鳥山に邸を構えました。明治12年(1879年)からは内外の賓客を招く公の場としても用いられ、明治34年(1901年)から亡くなる昭和6(1931年)までは、家族と過ごす日常の生活の場としても使用し、『曖依村荘(あいいそんそう)』とも呼ばれ、この地をこよなく愛していました。

【埼玉県・深谷市】

埼玉県・深谷市には渋沢栄一さんの妹夫妻によって建てられた『中の家(なかんち)』があります。渋沢栄一さんの生誕地に建ち、明治28年上棟された建物です。渋沢栄一さんが帰郷した際に頻繁に立ち寄り、寝泊まりした場所としても知られています。

家系図を紐解く(妻&子供)

【左:渋沢栄一 右:尾高千代】

渋沢栄一さんは、父親・渋沢市郎右衛門元助と母親・エイの間に長男として生まれ、19歳で従妹・尾高千代さんと結婚。2人の間には、3人の子供がいました。しかし、千代夫人は、明治15年(1882年)に41歳という若さでこの世を去りました。原因は、経口感染症の1つでもある『コレラ』でした。汚染された水や食物を摂取することによって感染するが、この時代での感染は珍しくなかったそうです。

【左:渋沢栄一 右:伊藤兼子】

千代夫人を亡くした渋沢栄一さんは、伊藤兼子さんと再婚しました。妾になるのはどうしても嫌だと断っていたところへ、渋沢栄一さんとの縁談がきたといいます。兼子夫人との間には、4人の子供がいました。

妾とは…妻としてではなく持続的な男女関係にあり、その男が生活の面倒も見る女性】

複数の愛人と関係を持っていた

女関係が派手で本妻以外にも多くの妾がおり、子供も約20人いたらしい。少子高齢化が叫ばれる現代社会には、うってつけの豪快な人物といえるだろう。

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出典:https://rocketnews24.com

知っている方も多いと思いますが、渋沢栄一さんは多くの”愛人”がいた事でも有名です。そのため、家系図には載っていない子供も多く存在していると言われています。また、”渋沢栄一邸”が点々と配置されているのも、各地の愛人と過ごすためという説まで浮上している。

 

この時代は、愛人を持つということは、特に問題はなかったようです。愛人がいうということは、男性として経済的に非常に豊かであるというステータスであり、逆に富豪でも愛人がいないと、世間的の信用が持てなかったという。最後に愛人との間にできた子供は渋沢栄一さんが当時68歳の時だったというから驚愕だ。

渋沢栄一の子孫の現在

現在も渋沢栄一の”血”は脈々と受け継がれています。”日本経済の生みの親”と言われた渋沢栄一の末裔について掘り下げていきたいと思います。

【渋澤健】

1961年生まれの59歳で渋沢栄一さんの玄孫(げんそん)にあたります。『コモンズ投信株式会社』創業者で、『コモンズ投信株式会社』会長。『シブサワ・アンド・カンパニー株式会社』の代表取締役CEOでもあり、祖先に劣らずの敏腕起業家として躍進を続ける。

【鮫島純子】

1922年生まれの97歳。渋沢栄一さんの孫にあたります。鮫島純子さんは、主にエッセイストとして活動し、講演会も人気だという。ちなみに、鮫島純子さんの父親・渋沢正雄さんは、渋沢栄一さんの三男なので、渋沢家の家督となる。つまり、鮫島純子さんも渋沢家の跡目を正式に継ぐ家系ということです。