長嶋茂雄の引退から現在!子供(長女・娘・息子)や病気(脳梗塞)・伝説の名言&エピソード総まとめ!

長嶋茂雄さんと言えば、誰もが知る読売巨人軍のスーパースターでした。子供の頃に彼のプレーを見てプロ野球選手を目指した方も多いのではないでしょうか。今回は、そんな長嶋茂雄について掘り下げていきたいと思います。

長嶋茂雄のプロフィール

出身地:千葉県佐倉市

生年月日:1936年2月20日(83歳)

身長・体重:178cm・76kg

血液型:B型

ポジション:三塁手

投球・打席:右投げ・右打ち

現職:[株式会社読売巨人軍] 専務取締役

これまでの主な経歴

1951年4月、地元の名門・千葉県立佐倉高等学校への進学するも、目立った成績を残せず、立教大学へと進学。すると、1956年の春季リーグ戦と1957年の秋季リーグ戦で首位打者を獲得し、1955年秋季から1957年秋季まで5シーズン連続でベストナイン(三塁手)に選ばれた。1957年には、リーグ通算8本塁打を記録するなど、躍動。

 

その後の進路は、社会人野球に進むと思われていた。しかし、各球団は長嶋茂雄さんとの接触を図り、猛アプローチをかけた。本命は南海ホークスとされていたが、最終的には母親の「せめて在京の球団に」というが言葉が決め手となり、読売巨人に入団。

 

 

1958年、1年目のオープン戦で7本の本塁打を放つなどの成績を残し、3番サードで開幕スタメンデビュー。ルーキーとして迎えたこの年の打撃成績は、29本塁打・92打点を記録し、本塁打王と打点王を獲得。打率もリーグ2位の.305をマークし、最多安打も獲得。盗塁もリーグ2位となる37個を記録し、同年の新人王に輝いた。

 

以降も、毎年のように各打撃部門のランキングに名を連ねる活躍を見せ、読売巨人軍だけにとどまらず、国民的スーパースターとして多くのファンに愛された。

1974年10月12日に引退発表

 

日本国民に多くの感動と喜びを与えた”英雄”も引退の時を迎えました。長嶋茂雄さんは、1974年10月12日に中日の優勝が決まり、巨人のV10が消えた日に現役引退を表明。翌日のスポーツ新聞の一面は長嶋引退の記事一色となり、中日の優勝は脇に追いやられてしまったという。

 

引退会見では「僕はボロボロになれるまでやれて幸せだった。最後まで試合に出ますよ」と残りの中日戦2試合の出場を約束した。また、別のインタビューでは「あしたはきっと良いことがある。その日、ベストを出しきって駄目だったとしても、僕はそう信じ、ただ夢中でバットを振ってきました。悔いはありません」と自分の現役時代について振り返ったという。

 

 

引退発表から2日後の1974年10月14日に引退試合がダブルヘッダーで行われた。長嶋茂雄さんは、引退試合前のミーティングでチームメイトに「思い残すことはない。みんなもいつか引退の日が来るが、それまでベストを尽くして悔いのないプレーをしてほしい」と挨拶。

 

また、この年史上初の2年連続三冠王を決めていた王貞治さんには、「すまんねぇ、今日は引き立て役になってもらうよ」とそっとささやいたという。対して王貞治さんは「今日はパッと明るく、アベックホーマーで行きましょう」と笑って答えた。

 

 

引退試合の第1試合は、3番三塁で出場。第2打席に現役最後の本塁打を放ち、王貞治さんも本塁打を放ち、試合前の言葉どおり最後の”ONアベック本塁打”を記録した。第1試合終了後に外野フェンスに沿って泣きながらファンに挨拶した。当初は第2試合終了後場内を一周する予定で、予定外の行動だった。

 

この行動について長嶋茂雄さんは、「今日ほどスタンドの拍手が胸に響いたことはなかった。第1試合が終わったら、知らないうちに外野に足が向いていたんだ」と語っている。2試合目の第2打席でも、センター前に現役最後となるヒットを放ち、自身の現役生活に華を添えた。

 

 

引退試合後のスピードでは、「我が巨人軍は永久に不滅です!」という有名な言葉を残し、現在も語り継がれている。1974年11月21日には、現役時代に付けていた”背番号3”が読売巨人の永久欠番となった。後に長嶋茂雄さんは、引退理由について”自身の成績の低下や、チームの連覇が途絶えてしまった事、「お金も名誉もいらないから選手としてやらせてほしい」という理由で断っていた巨人軍の監督のオファーが断れなくなった事”と語っている。

 

以前から球団より監督打診を受けていたが、1974年11月21日に正式にオファーを受諾し、読売巨人軍の1軍監督に就任となった。しかし、監督1年目として迎えた1975年のシーズンは、球団創設以来初の最下位に沈んだ。翌年1976年には、巨人の代名詞とも言える”大型補強”を敢行し、最下位から一転、リーグ優勝を果たした。1977年にもリーグ優勝するが、その後のチーム成績不振や球団トラブルが影響し、1980年監督職を辞任。

 

12年後の1992年10月12日に再び1軍の監督に抜擢され、現場復帰を表明。1993年から2001年の9年間で3度のリーグ優勝と2度の日本一を果たし、名監督の称号を得た。

伝説エピソード&名言まとめ

長嶋茂雄さんのもう一つの特徴は、”長嶋語録”とも言われる名言とスーパースターと言われるエピソードの数々。ここからは、そんな長嶋茂雄さんの伝説的ストーリーを紹介していきます。

 

【長嶋語録】

  • 記者の「どんな本を読んでるの?」質問に「いわゆるブック的なものをですね」と返答。
  • 誕生日を迎え「ひとつ年をイートしまして」とコメント。
  • 「松井君にはもっとオーロラを出してほしい」と発言。
  • レストランで鶏肉を頼む際「アイム チキン」と注文。
  • 左腕投手陣を「レフティーズ」と命名。
  • 好きな番号を聞かれて「ラッキーセブンの3!」と返答。
  • 開幕前の意気込みで「開幕10試合を7勝4敗で行きたい」と発言。
  • 水泳選手・イアンソープに「How old おいくつ?」と質問。
  • 肉離れの時に「ミートグッバイ」と発言。
  • お寿司を食べて「板さんのオニギリ、美味しいね」と発言。
  • 円陣を組んで「いいかお前達、絶対にあきらめるな!人生はGive upだ!」と発言。

 

【エピソード】

  • 監督になった際にくじ引きの練習を始め、見事に松井秀喜を引き当てる。
  • バットをもたないでボックスに立った。
  • 佛教大学の学生を見て「仏教の顔じゃないね」と発言。
  • マラソン大会のスターターを務めた際、何も持っていない手を上にあげ、ピストルを持った手を耳に当てて引き金を引いた。
  • 片方の足に靴下2枚履いて「もう一枚ない」と大騒ぎ。
  • キャンプでアメリカ訪れた際「こっちの子は英語がうまいなあ」と発言。
  • 解説者時代、9回裏の攻撃前に「この回で逆転しないともう後がありませんよ」と当たり前のことを解説。
  • 当時セコムのCMに起用されていたが泥棒に入られ、翌日株価大暴落。
  • 蛍の光を聴いて「君が代はいいですねえ、僕も日本人だなあ」と発言。
  • アメリカの首都を聞かれ「アメリカの首都?シカゴに決まってるじゃないですか。」と返答。

 

【名言集】

  • 長嶋茂雄であり続けることは、結構苦労するんですよ。
  • スランプなんて気の迷い。俺はいつも“絶対打てる”という気持ちで打席に立っている。
  • 小さなボールと一本のバットには運命と人生がつまっている。
  • なにか一つのことに脇目も振らずに打ち込める時期を持てる人は幸せかもしれない。
  • 少なくとも、セオリー通りの安全な道ばかり歩いていては、生きがいなんか生まれませんよ。
  • ウサギとカメならカメでいい。我慢する勇気が重要なんです。
  • プロなら陰の苦労や苦悩を人前でみせるべきでない。
  • なぜ逃げるのか。打たれて命を取られるのか。打たれたからって命を取られるわけないんだ。逃げるな。
  • いつもずっと思っていることは、現実になっていきます。よいことを常に思っていましょう。
  • 努力してますと練習を売り物にする選手は、プロフェッショナルといえない。

2004年3月4日脳梗塞で倒れる

当時68歳でアテネ五輪日本代表チームを指揮していた長嶋茂雄さんは、2004年3月4日に脳梗塞で倒れて緊急入院。当時の主治医には「寝たきりも覚悟してください」と言われるくらい事態は深刻で、右手・右足の麻痺と言語に後遺症が残った。

 

しかし、2日後には言語機能はかなり回復し、5日後にはリハビリをスタートさせた。指揮官として、アテネ五輪への意欲を見せたが、主治医の判断で現地入りを断念。肩書きはそのままで中畑清ヘッドコーチが指揮を執ることになった。ベンチには、背番号『3』が入ったユニフォームが飾られ、長嶋茂雄さんと戦うチームの絆が印象的だった。

 

その後も必ず決まった時間に歩行練習をするなどの懸命なリハビリを繰り返し、自力歩行や片手ではあるが、バットスイングができるまで回復した。次なる目標は”走ること”と豪語しているのだから、さすがのミスターと言える。

 

【右手の秘密…】

脳梗塞で倒れてから復帰して以降の長嶋茂雄さんは、常に右手をポケットに忍ばせています。2013年5月5日に行われた国民栄誉賞授与式で首相・安倍晋三氏と対面した際も、ポケットに右手を入れっぱなしだった。そのため、「総理に対して失礼じゃないか」などの批判の声もあった。

 

しかし、これには理由があった。麻痺が残った状態の右手は人前では出さないと決めている長嶋茂雄さんなりのファンへの配慮だった。ファンのイメージや夢を壊さないために、無様な姿を見せないと心に誓っているという。これも”長嶋茂雄が長嶋茂雄でいる”ための努力と言える。

2018年7月に極秘入院

どうも入院中の長嶋さんの容体が芳しくないようです。悪化と小康の繰り返しで病状が安定せず、いつなんどき、何が起こってもおかしくない状態だそうです。

出典:https://www.news-postseven.com

 

長嶋茂雄さんは、2018年7月に激しい腹痛と高熱に襲われ、都内の病院に極秘で入院していた。肌や目が黄色くなる”黄疸(おうだん)”の症状が出ていたため検査をしてみたところ、『胆石』が見つかったが、同年12月に無事退院している。

現在の長嶋茂雄の姿

近年は、様態の悪化や入院の影響もあって、なかなかその姿を見る機会が減ってきています。しかし、2019年4月2日の巨人×阪神、通称”伝統の一戦”で姿を見せた。公の場に現れたのは2018年6月8日の巨人×西武戦以来、298日ぶりとなった。

 

関係者や娘・三奈さんに支えられながらの登場ではあったものの、ファンに手を振り、笑顔を見せ、多くのファンを喜ばせた。本来は、バルコニー登場を済ませたあとに帰る予定だったが、いざ、球場に来ると試合を観戦したくなったのか、1回の表裏を観て引き上げたという。その際、読売巨人主筆の渡辺恒雄氏との談笑も話題となった。

 

長嶋茂雄の子供を総あらい

長嶋茂雄さんには、4人の子供がいます。数々の伝説をつくり、名実ともに大物野球選手のミスターの子供ということもあり”親の七光り”とも言われた時期もありました。しかし、自分の生きる道を見つけ、長嶋茂雄さんのように愛されるキャラで活躍しています。

長男・長嶋一茂

現在は、タレントとしてマルチに活躍している長嶋一茂さんですが、元々は父親の長嶋茂雄さんと同じプロ野球選手でした。高校時代から本格的に野球を始め、立教大学で2季連続でベストナインに選ばれたほどの実力者。

1987年のドラフト会議でヤクルトスワローズから1位指名され、入団した。1年目の4月27日の試合でプロ初安打をホームランを放ち、『ミスター二世』として注目を集めた。しかし、本人は開幕後に相手投手の攻め方が変わったことでプロの壁を痛感しており、1年目の4月で限界を悟ったという。

 

その後も目立った成績を収めることなく、巨人へ無償トレード。しかし、そこでも結果は出せずに選手生活7年間に終止符をうった。引退後は、”ミスターの息子”という物珍しさからバラエティー番組に呼ばれ、持ち前の明るさでタレントへ転身した。

次男・長嶋正興

次男の長嶋正興さんはアメリカ留学を経て、暁星国際高等学校を卒業後に駒澤大学経済学部経済学科に進学しました。同大学在学中の1992年からレース活動を始め、レーシングドライバーとして活躍した。

 

全日本F3選手権や全日本GT選手権、フォーミュラ・トヨタ、などに参戦。好成績を残し、数々の入賞や優勝を果たす。現在は、レーシングドライバーを引退し、環境管理士などの資格を取得し、環境の保全や改善に従事している。

次女・長嶋三奈

日本大学を卒業後、テレビ朝日に入社し、スポーツ記者として勤務していた長嶋三奈さん。1990年代後半頃から、スポーツキャスターとして表舞台に顔を出すようになり、『ニュースステーション』や『熱闘甲子園』といった番組で活躍した。

 

現在は、キャスター業を離れ、個人事務所『株式会社オフィスエヌ』の社長として、活動の場を広げている。また、父親が脳梗塞後のリハビリや胆石で入院した際もできるだけ付き添い、看病をするなど陰ながら長嶋茂雄さんを支える姿が印象的と話題になっている。

長嶋家に亀裂…

「ミスターと一茂、父子の確執と報じられていますが、その本質は、長男・一茂と次女・三奈の対立にあるのです」(長嶋家を知る関係者、以下同)

出典:https://headlines.yahoo.co.jp

 

”お家騒動”は数年前から囁かれ、一旦は落ち着きを見せていたが、ここにきて再び勃発している。長嶋一茂さんは、「父親を守るのは、自分しかいない」と宣言しており、一方の長嶋三奈さんも長嶋茂雄さんの脳梗塞や入院時に24時間体制で看病を続けるなど、献身的に寄り添った唯一の親族。互いに”父親想い”であるが故にこのような事態に発展している。

 

過去には2009年に長嶋茂雄さんのトロフィや盾などの記念品を売却したことや当時、長嶋一茂さんの妻が社長を務めていた『ナガシマ企画』が長嶋三奈さんに無断で”長嶋茂雄”の名前を商標登録しようとしたことで確執が生まれた。しかし、長嶋家の”溝”は、まだまだ埋まる気配はなさそう。